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上手に生きられない人間の暮らし。

認知症になっても大丈V

 認知症は,高齢者にかなりの確率で発症し、高齢化社会でその人数も多いから、日本の喫緊の社会問題になっている。

 今回は、茨城県のT町からの相談があって、訪問相談を行ってきた。

 認知症といっても、さまざまな種類があって原疾患によって症状の出方も異なる。アルツハイマー病、脳血管疾患、ピック病などがその種類の代表的なものとして数えられる。

 相談者の世帯は、40代後半の娘と、74歳の母の2人暮らしであった。

 娘さんは会社員であり、どうしても週5日の朝6時に家を出て、帰宅は午後7時。そのあいだ、母は部屋にひとりぼっちになる。

 部屋はアパートの2階で、母親はひとりで階段を下りる脚力はない。

 近所に身寄りはなく、ごくたまに東京に働きに出ている長男が帰省して、介護の手伝いをしてくれるが、稀なことであり、実質、娘さんが就労して2人分の生活費を稼ぎ、しかも夜は不穏、徘徊となる母親の面倒を見るという非常に過酷な日々を送っているのだった。

 この母親は、アルツハイマー病ではなく、脳血管疾患によるものと思われた。親族の名前や昔のエピソードはよく記憶しており、料理や掃除の仕方もそれなりに維持できているが、短期記憶の障害が顕著で、さっき食べたものや話したことも忘れる。

 一番大変なのは、夜間の不穏状態で、「なんでここにいるんだ?」「おなかがへった。」と言って、台所と寝室をうろつきまわり、おむつも外してしまう。とどめる娘さんに対して反抗的で怒鳴り声をあげることもしばしば。

 

 この町は、認知症になっても安心して暮らせるというリーフレットを作成して役場窓口に置いているが、「どこが大丈夫なのだろう?」と私は甚だ疑問に感じた。認知症の実態を知らないのではないか。

 娘さんは、ある程度の負債を覚悟で、長期のショートステイや入所施設を試みたが、どこの施設でも数日間で返されてしまう。「ウチでは見切れません」というのがその理由だ。

 専門機関で匙を投げる対象者を、親族一人で抱えきれるものだろうか。

 経験豊富な介護人材がいるという地域包括支援センター。その相談窓口に娘さんと同行し、介護負担の実態をくまなく伝える。幸いなことに、居宅介護支援事業所を併設していることから、即、介護用ベッドとトイレの手すりが設置された。

 しかし、それで問題が解決したわけではない。サービスが手厚ければ介護者がラクになるのか。決してそうではない。同居者がいれば、家事支援サービスが入ることは無い。

 夜間の不穏徘徊に娘さんが対応する実態に変化はない。

 

 認知症になっても、全然、大丈夫ではない。安易な発想で安心感を与えられるほど、認知症は簡単な問題ではないのではないか。

 何より本人の母親が毎夜、強い不安にとらわれているではないか。

 眠剤精神安定剤、体の不快感を取り除く、皮膚科の受診、認知症の正しい見立て。多くのことが必要だが、これらを丁寧に進めていけるほど、現代社会の介護専門職や病院は暇ではない。

 

 

育てそこなった親たちと、育ちそこなった子供たち

 8050問題を脱したということで話題を呼び、講演会を開いた爺様の話を良く聞いてみれば、80歳とひきこもりの50歳の息子は、81歳と51歳になっただけだった。
 8151問題・・・・。
 日本語の育て方は難しいから、しばしばこういう勘違いが起こる。
 そういえば、「子育て」の表現を批判し、「子育ち」といおうブームはもう去ったのであろうか。「育て」であろうが、「育ち」であろうが、「子」から始まってすでに大人目線であることから反省しよう。
 孤独死した人は、あたかも死に方に失敗したみたいな印象を持たれてしまうから、「尊厳死」と言おうとか、「自立死」と言おうという流行りもあった。
 死んでしまった人がその瞬間に何をどう感じたかはもう判らないから、これも言葉遊びの不毛な論争なのだが、孤独死だけをピックアップするよりも、今、孤独でいる人をどうにかしてあげたらいい。
 8050問題の件に話は戻り、親がきちんと躾、教育をしてこなかったツケはどのように清算されるのか。具体的に見ていくと、それは社会全体でその負担を負うことになるらしい。
 思わず心の中で「マジか!」と叫んでしまう。
 その子、といっても既に中年のその子を、福祉という国家予算で見ていくことになる。国家予算を形成しているのは、もちろん税金である。私が時給500円で働いた焼き肉亭「炉満(ろまん)」の収入のうち、幾何かはそちらに持っていかれることになる。
 働かず家でゲームをしながら親に恨み言を言っている中年に!!
(まじか!)と私は再度、心の中で葛藤の雄たけびをあげる。
「働かないのか、働けないのか」と疑問符を投げかけた学者たち。今こそ、彼らを自身の扶養に入れる時が来た。先進的な発言に、常に行動を伴わせることが出来れば、人は簡単に多くの人からの票を集めることができるだろう。
 働かなくてお、働けなくても、それは本人の問題で、その他おおぜいはその解答がどうであろうと、日々、労働を続けているのだ。

傾聴とは何か

  本日は、「聞く」ことについてです。

 人事課長ではりませんが、聞くことには3つのスタイルがあると言われています。

①聞く

 聞こえてくるものを自身の聴覚によってとらえている状態。相手の意図や情動にはあまり関係がなく、よって、聴いても逆サイドの耳から抜けていくことがしばしば。

②訊く

 問いただす。あまり良い印象ではないのは、話したい人が話したいことを話すというよりも、聞きたい人が、聞きたいことを話させるという、やや威圧感が介在する。

③聴く

 なんかよいイメージ。これは主導権が話している人にあって、こちらは耳を傾けている状態。相手の言っていることを理解しよう、気持ちを知ろうとしている状態。一般的にはこの状態を傾聴と呼んでいる。

 

組織とは何か

 相談室をおたすねくださる方の悩みの大半は、「職場の人間関係」に因んだことが多いです。

 暮らしていくためには、生活費を捻出せねばならず、一部の人を覗いたほとんどすべての国民は、「労働」をすることで生活費を得ています。

 そのため、生活費を捻出する経済活動を行っている団体、つまり組織に加入する必要があるのです。

 ここではその「組織」とは何かを良く理解して、不必要なストレスを職場から被らないよう、自身の認識を整理するセッションを行います。

 

①組織の定義

 組織は、「目的を実現するために、協力して働く集団」と定義することができます。

 目的を達成するために一人で事足りるのならば、個人事業主ということになるでしょうし、とても一人では担えない目的、例えば、自動車の製造などは多くの人が関わらなければ達成できないことなので、集団となり、個々人が影響を与え、与えられ、目的達成のために行動することになります。

 この組織を効果的に運用していくために、組織の所属している人が組織の掲げる目的に貢献しようとする意欲を持つことや、その集団に所属する人たちが、「共通の目的」として認識していることが重要です。

 かねてからビジネス用語として定着しているマネジメントは、この集団があることで生じる、経済や人間、情報など、あらゆる集団要素を想定して、目的達成のために効果的に配置しようとする働きかけのことを刺します。

 

②集団を管理する基本的な手法

 集団がただの集団ではなく、組織であるために、所属している個々人の権限や担う業務を定める必要が生じます。

 これが、課や、係、部長、社長などと呼ばれる肩書の本当に意味です。

 組織が効果的に機能するために、同じような業務は一つの係にまとめ、同じ業務を複数の係で行わないようにします。なぜなら、重複は無駄だからです。また、A係の作業量が100のところ、B係の作業量が50であるというような、極端な作業量の偏りも組織の効率的な運用の弊害になります。なぜなら、マンパワーの無駄や、過労によるマンパワーの低下につながるからです。

 また、組織には、様々な役職がありますが、これらはすべて、命令の統一化を図るためのものです。一人の社員に対して、部長と課長から、違った指示が来てしまったら、どうしてよいかわかりません。そこで、組織のトップの考えが、現場のスタッフまでブレなく伝わるために、ラインとも呼ばれる系統をその組織の中に作り出しています。このことで、誰が誰の監督をしているのかが明確になり、目的達成のための無駄や非効率などを改善しやすくなります。

 この系統には、権限と責任がつきもので、一人ひとりのスタッフには、割り当てられた権限と責任が与えられます。このことにより、一人ひとりおnスタッフが、サボることなく、一生懸命に働くようにしているのです。一方で、与えられた権限と責任以外のことには注力する必要がなくなり、ひとつの業務に集中できるようになるというわけです。

 

「子どもが嫌い」と言えない世の中

 マンションのどこかで、チワワの鳴く声がする。朝からとてもうるさい。

 私は犬が嫌い。動物が嫌い。思いやりのない人に思われるようで、誰にも言えないけれど。

 電車の中で子どもがわめき、泣いている。心底、うるさいと思う。他人の子どもに可愛さを覚えることは稀だ。第一、身も知らぬ人の見も知らぬ子を、無条件に愛せるほうが、どうかしていると思う。

 

 Aさん(30代前半女性)はそんなことを語ってくれた。

 昨今は、少子高齢化が進み、子育て支援策を国家で推し進めている風潮があるから、「子どもが嫌い。」などとはとてもいいづらい。

 Aさんの職場の係は、Aさん以外みんな既婚者で、子育て中のママである。だから仕事中の会話も子育てが中心になる。

 正直、うんざりだ。興味がない。他人のこともの話だなんてお。

街中の腹痛という地獄。小さいおじさんの優しさ。

 シェイクの一気飲みで休息冷房が体内に発動し、ぼくの全身機能は停止に向けて着々と進んでいた。痛覚のスイッチもついでに切れれば良いのだが、そこだけはしっかりと働き、ただ、冷や汗と脱力。それはヒザがガクガクとするほどであり、到底、歩行まで及ばない。

 そこで道沿いにあるドトールコーヒーの座席ひとつにつっぷしていた。

「オーダーにもいけやしねえ・・・。」痛みで意識が、記憶が跳びそうである。

 小さいおじさんが現れたのは、その時だった。小人という小さなではない。そいつはおやゆび姫、否、おやゆび親父であった。

 前頭部が禿かかり、やたら大きく四角い金縁眼鏡をかけていた。ワイシャツはスラックスから前の方がはみ出ている。それは下っ腹が出ていることと直接的に関係していた。無精ひげ、猫背、そして何故かリュック背負って・・・。

(幻覚が・・・。ヤヴァイ。未来の自分の姿が見える。)死の瞬間には時間が歪む。そのことは身辺で経験した身近な人の死や、数多く読んできた本の中でうすうす感づいていたことだが。

「ばかやろこのやろおめえ。おれあ、おめえじゃねえよ。ただの小さいおじさんだよ。まあ、おやゆび親父ってとこだな。」

 おじさんはリュックを降ろした。そのリュックはリュックサック界のロールスロイス、グレゴリーであった。

(こいつ・・・どこまでもσ(゚∀゚ )オレと似てやがる・・・。)

 黒いグレゴリーから取り出したそいつは、ざらついた質感といい、どこかいびつな形の球体といい、まるで丸めた何やらみたいなその色といい、何よりも独特な異臭・・。

 こいつは・・・

「おい、おじさん、それってまさか、おまえ・・せ、せいろそば・・・。いや、せいろ・・・がん?そうなのか?」

 

 千載一遇という言葉がある。こういう時に使うのが適切なのかどうか。「おねげえしますだ。その正露丸を、まろに・・、まろにくれろ。」

 ぼくは言いつつ、その独特な芳香を放つそいつをつまみとり、口の中に放り込んだ。届け、正露丸の効用、食道を伝わり胃部を下降し、腸まで届け。

 痛みという命の安全シグナルを遮断せよ。

 

 

 

 

ijime(悪い)

 8050問題を脱却したという親子の講演会を聴きに行った。聴衆にならいつだってなれる。檀上に上がりさえしなければ。

「8050問題に直面したときには、どうなることかと息子と思い悩んだのですが、無事、私が81歳、息子が51歳になりました。」と挨拶すると会場から拍手が沸き起こった。

 公演の最後の方で司会者が「会場の皆さんから何か質問がありませんか?」と問いかけられると、一人の中年女性が手を挙げた。係員からマイクをひったくるようにしてその女性は、「団地に住んでるんですけれど、上の住民が深夜にシャワーを浴びたり、騒いで笑い声を立てたりして不眠気味です。こういう非常識な住民には出てってもらいたいと思うんですけど、どうなんですか!」と捲し立てた。

 81歳の父親は、落ち着き払ってこう答えた。

「団地・・・。それはカオスそのものです。考えてもごらんなさい。あの四角い豆腐の中にありとあらゆる年代、人種、価値観、生活スタイルがごっちゃになって暮らしているのですよ。何事もないほうが不思議でしょうに。それにあなた知っていますか?団地はそれほど防音施工されていないことがほとんだ。階上の住民の足音だと思っていた音が、実は斜め上の住民の立てる騒音であったり、そんなことは日茶万事ですよ、にっちゃばんじ。どうでしょう。ドシドシと足音が聞こえてきたら、軽快なサンバのリズムを今日も聴けてラッキィだったと思うようにしては。」

「あ・・・。そうなんですね。なんだかわたし・・。よく知らないで自分の不都合ばかりに気を取られて・・・。恥ずかしいです。」

 ぺたんと座り込んだ。会場からは、おおーっという声があがった。「さすが、8050を超えた人は違う。」「いぶし銀のような言霊を感じたよ。」とそこかしこで聴衆が囁きあっていた。

 帰り道、リサイクルセンターに寄った。「いじめ」という本が置いてあったので読んでみたが、どこぞの自己啓発に目覚めた人が、聞こえの良い言葉ばかりを並べて、あったかい雰囲気を醸し出しているものの、どうしたら「いじめ」が無くなるのかについてはまったく書かれていなかった。とてもつまらないから、小腹を満たしに寄ったマックのゴミ箱に捨てた。

 ひきこもりが社会問題化しているが、ひきこもりの原因の一番は、学校や会社でのイジメである。ひきこもりをどうするか、ではない。イジメをどうするかなのだ。

 マックではガキがわめき散らしていた。不満を大衆意識を最大限に利用して、間接的に主張しようとするあの姑息で耳障りすぎるわめき方だ。ぼくは心底、五月蠅いと感じた。子どもの声が煩いと住民運動があって保育園や幼稚園の設置が捗らないという話を聞いたことがあるが、最もな意見のように思えるし、私は子どもとは縁がなく人生を終える予定だから、どちらかといえば、住民運動する側なのかも知れない。

 多様な価値観は認められるのならば、子どもが嫌いな人も、好きな人も、両方が快適に過ごせる環境が大切で、少子化施策が進み、子育てしやすい環境が整う一方で、子どもとは何ら関係のない人生を送ろうとする人が、子どもの声を煩いと感じるのは当然のような気がする。だが、それを口にすれば心無い人だと思われてしまうのだろう。

 

 そんなことを考えながら、昔、マックシェイクを飲んでひどくオナカを壊したことがあったと思いだした。別にマックシェイクが悪いのではなく、ぼくはオナカが弱いのだ。だから、夏の日差しの厳しい折に、勢いに任せてシェイクを飲むと、大変な苦痛に見舞われることになる。あのときは、道端で激痛に襲われて、ドトールに駆け込み、席で蹲っていた。ひどい痛み方に店員が心配するほどだった。

 マックシェイクによる痛みをドトールの店員が心配してくれる世の中に、温かみを感じた。次回からはマックシェイクはホットで注文しようと思った。