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上手に生きられない人間の暮らし。

育てそこなった親たちと、育ちそこなった子供たち

 8050問題を脱したということで話題を呼び、講演会を開いた爺様の話を良く聞いてみれば、80歳とひきこもりの50歳の息子は、81歳と51歳になっただけだった。
 8151問題・・・・。
 日本語の育て方は難しいから、しばしばこういう勘違いが起こる。
 そういえば、「子育て」の表現を批判し、「子育ち」といおうブームはもう去ったのであろうか。「育て」であろうが、「育ち」であろうが、「子」から始まってすでに大人目線であることから反省しよう。
 孤独死した人は、あたかも死に方に失敗したみたいな印象を持たれてしまうから、「尊厳死」と言おうとか、「自立死」と言おうという流行りもあった。
 死んでしまった人がその瞬間に何をどう感じたかはもう判らないから、これも言葉遊びの不毛な論争なのだが、孤独死だけをピックアップするよりも、今、孤独でいる人をどうにかしてあげたらいい。
 8050問題の件に話は戻り、親がきちんと躾、教育をしてこなかったツケはどのように清算されるのか。具体的に見ていくと、それは社会全体でその負担を負うことになるらしい。
 思わず心の中で「マジか!」と叫んでしまう。
 その子、といっても既に中年のその子を、福祉という国家予算で見ていくことになる。国家予算を形成しているのは、もちろん税金である。私が時給500円で働いた焼き肉亭「炉満(ろまん)」の収入のうち、幾何かはそちらに持っていかれることになる。
 働かず家でゲームをしながら親に恨み言を言っている中年に!!
(まじか!)と私は再度、心の中で葛藤の雄たけびをあげる。
「働かないのか、働けないのか」と疑問符を投げかけた学者たち。今こそ、彼らを自身の扶養に入れる時が来た。先進的な発言に、常に行動を伴わせることが出来れば、人は簡単に多くの人からの票を集めることができるだろう。
 働かなくてお、働けなくても、それは本人の問題で、その他おおぜいはその解答がどうであろうと、日々、労働を続けているのだ。